2014年08月28日
夏野菜の収穫
晩春から、入梅頃にかけての低温、
そして、空梅雨と、
うちの場合、
今年は、夏野菜の生育が遅れ気味だったのですが、
ここにきて、
万願寺トウガラシや、トマト、ナスなどが採れはじめました♪
例年と比べると、
そうですね~、2、3週間遅れ、
といった感じですが、
まあでも、これは、
彼らなりに精一杯頑張った結果ですし、
なにより、
この分なら、今年も次代へと生を繋げそうですので、
まずは、
なにより、なにより。
鶏肉や、豚肉と、
万願寺トウガラシや、オクラ、ナスなどを、
トマトで煮込んだ、
我が家定番の夏のおかずが、
今年も、楽しめそうです♪
今では、桜の咲く頃には、
ホームセンターなどで、
ナスや、トマト、ピーマン等の、
夏野菜の苗が売られています。
で、これはもちろん、
ハウス育ちの苗、
つまり、
人為的に、温度を与えられて育った、
苗たち。
この時期、自然状態では、
発芽適温に至っていないため、
播種しても、芽が出てきません。
これは、言い換えれば、
彼らにとっては、生きていくことに適さない時期、
つまり、
何千年という歴史を生きてきた中で、
この時期に芽を出しても生育できないから、
発芽という、彼らにとって大事な大事な行為にもかかわらず、
それを、やめることを選択してきた、
という、そんな時期に、
人の都合で、無理やり温度を与え、発芽させている、
という事になります。
繰り返しになりますが、
ハウスや、暖房器具などがなければ、
もちろん、そんな時期に、
彼らは、発芽という行為を、
選択しないでしょう。
今、野菜において、
旬と言う言葉はあれど、
旬というものの持つ本当の意味が、
失われつつあると思うのですが、
本来の旬とは、
露地にて、種まきの旬に播かれ、
そして、そんな旬に播かれた野菜が、
露地で育ち、やがて収穫期を迎え、
収穫できるようになったとき、
もしくは、収穫している間の、時期を表す言葉だと、
私は、そう思います。
もちろん、ハウス育ちの作物を、
否定しているわけではありません。
ただ、露地という、
彼らが本来暮らしてきた場所で、
彼らが、長い年月を経て確立してきたライフサイクルを、
今一度、彼らの手に帰してあげることができたら、
と思う次第。
そして、それは、
彼らにとって本来あるべき姿であるばかりでなく、
大昔から、
そんな野菜たちを旬に食べ、糧にしてきた、
私たち人間や、野に暮らす生き物たちにとってもまた、
本来の、あるべき姿だと思います。
食べ物という、
その言葉の持つ本来の意味、意義が薄れ、
商品という、
お金、経済、という、
人の作り出した価値観に左右されるようになりつつある現代、
私の思うようなことの実現は、
難しいことだとは思うのですが、
一粒の種子に込められた彼らの思いを受け止めながら、
彼らと共に歩きながら、
いつか、いつの日かと、夢見ています。
そして、空梅雨と、
うちの場合、
今年は、夏野菜の生育が遅れ気味だったのですが、
ここにきて、
万願寺トウガラシや、トマト、ナスなどが採れはじめました♪
例年と比べると、
そうですね~、2、3週間遅れ、
といった感じですが、
まあでも、これは、
彼らなりに精一杯頑張った結果ですし、
なにより、
この分なら、今年も次代へと生を繋げそうですので、
まずは、
なにより、なにより。
鶏肉や、豚肉と、
万願寺トウガラシや、オクラ、ナスなどを、
トマトで煮込んだ、
我が家定番の夏のおかずが、
今年も、楽しめそうです♪
今では、桜の咲く頃には、
ホームセンターなどで、
ナスや、トマト、ピーマン等の、
夏野菜の苗が売られています。
で、これはもちろん、
ハウス育ちの苗、
つまり、
人為的に、温度を与えられて育った、
苗たち。
この時期、自然状態では、
発芽適温に至っていないため、
播種しても、芽が出てきません。
これは、言い換えれば、
彼らにとっては、生きていくことに適さない時期、
つまり、
何千年という歴史を生きてきた中で、
この時期に芽を出しても生育できないから、
発芽という、彼らにとって大事な大事な行為にもかかわらず、
それを、やめることを選択してきた、
という、そんな時期に、
人の都合で、無理やり温度を与え、発芽させている、
という事になります。
繰り返しになりますが、
ハウスや、暖房器具などがなければ、
もちろん、そんな時期に、
彼らは、発芽という行為を、
選択しないでしょう。
今、野菜において、
旬と言う言葉はあれど、
旬というものの持つ本当の意味が、
失われつつあると思うのですが、
本来の旬とは、
露地にて、種まきの旬に播かれ、
そして、そんな旬に播かれた野菜が、
露地で育ち、やがて収穫期を迎え、
収穫できるようになったとき、
もしくは、収穫している間の、時期を表す言葉だと、
私は、そう思います。
もちろん、ハウス育ちの作物を、
否定しているわけではありません。
ただ、露地という、
彼らが本来暮らしてきた場所で、
彼らが、長い年月を経て確立してきたライフサイクルを、
今一度、彼らの手に帰してあげることができたら、
と思う次第。
そして、それは、
彼らにとって本来あるべき姿であるばかりでなく、
大昔から、
そんな野菜たちを旬に食べ、糧にしてきた、
私たち人間や、野に暮らす生き物たちにとってもまた、
本来の、あるべき姿だと思います。
食べ物という、
その言葉の持つ本来の意味、意義が薄れ、
商品という、
お金、経済、という、
人の作り出した価値観に左右されるようになりつつある現代、
私の思うようなことの実現は、
難しいことだとは思うのですが、
一粒の種子に込められた彼らの思いを受け止めながら、
彼らと共に歩きながら、
いつか、いつの日かと、夢見ています。
Posted by とんちゃん at 16:26│Comments(0)
│野良仕事